磨き砂

日々、飛んでくる砂

言葉通り、磨くための砂だから「磨き砂」。

日々、生活をしていると、試練とは言わないまでも「今、自分は試されているな」というシーンがあるものです。

試している人は、神様でも、お客様でも、(会社に行っている人は)ボスでも、誰でもいいとして、自分にとっての試練というのは、大なり小なり、日々起こるものです。

それを仮に「砂」としましょうか。

ま、口に入るとジャリジャリと気持ちの良いものではないので、そのように例えているだけですが。

そして、磨き砂へ

さて、小さかろうが、大きかろうが「砂」として、それをどう捉えるかで、日々の気分といった小さな話ではなく「生活の質」が変わるものです。

どうせ自分をすり減らすものであるなら、あるいは、心身のパワーを割いて対処していかなければならないものであれば、それは前向きに捉えるに越したことはありません。

自分をうまく磨いてくれる、これまでの自分とは(若干であれ)違うように磨きをかけてくれるものと捉えて「磨き砂」と思う。思い込んでしまう。

そうしたら「よし、うまく研磨されたぞ!」と実感できる出来事も意外とあるのではないでしょうか。

レモンを手に入れたらレモネードを作れ

誰の言葉か忘れましたが、レモン(不運)を手に入れると、レモネードを作ってやれば美味しいぞ、といったニュアンスの言い方がありましたね。

砂も一緒で、砂(試練)があれば、それをそのままにしておくと「ただの砂」。

だけど、自分の「磨き砂」と思えば、それはそれは、価値のある砂に大変身というわけです。

さて、今日の砂で、どのように自分を磨きますか?