確かに言語化と見える化は大事
見える化という言葉が定着して久しいです。
同僚のコンサルタントが改めて、言語化・可視化は大事だと言う話をしていました。
これまで見えていなかった(見える化していなかった)ところを「可視化」して、数値管理していくことは、ムダ、ムラ、ムリがなくすのに非常に有効な手段です。
そして、一つの例として(夕方でしたので)
「あの山が綺麗なのは、山の緑と夕日の赤が混ざって、稜線をくっきりと浮かび上がらせているからだ」
と「敢えて言語化する」いう話をしていました。
経済合理性と感情は非なるもの
個人的には、例えば、設計~調達~生産・製造~販売~サポートといったバリューチェーンの中で、合理的経済活動としてのパフォーマンスを求めるならば、 可視化・言語化は非常に大事な考え方だと思いますし、それを抜きにして、パフォーマンスのアップは望めないのではないかすら思います。
しかしながら、いわゆる文化、感性の世界での「感情」を言語化するのはムリがあるどころか危険とすら思います。
何故、泣くのか、何故、喜ぶのか、何故、感動で鳥肌が立つのか?
何れも、理由を説明しようとすればできるのでしょうが、ロボットではないので、自分の感情は感情として敢えて言語化せずに「感じる」ことが大事だと思います。
また、そのような感性がなければ、画一的な世の中になってしまうのではないでしょうか。
言語化、可視化は合理的経済活動と併せて考えたいものです。